みんなのチカラに~ぼくが力になれること

産まれてすぐに救急搬送されたチカラは、 5万人に1人とされるトリーチャーコリンズ症候群と診断された。 箇条書きでも1枚に収まらないほどの手術や入院を繰り返した2005年からの10年。 これからどんなことが待ち受けているのか。 もう、チカラも家族もどんとこいの力が備わりつつある。はず。

「ありがとう」が疲れる~311コメントの違和感

本日、東日本大震災から2年。
 
学校を休んでいたので、午前中からゆるくテレビがついていた。
ずっと震災関連のことが、形を変えて、流されていた。
 
見ていた番組中で、どこぞの誰かのメールかツイッターかなんかのコメントがあった。
「やってもらいたいことがあれば、声に出して言ってください。きっと誰かがやってくれます。」
このコメントにとても違和感を覚え、耳を傾けてしまった。無責任な偽善。
コメント出した方は、全然悪気なく、本心からの言葉だとは思うのだが。。。
 
力を授かった後、手術や長期入院でまだ全く先が見えなかった頃、
このコメントと全く同じような言葉を何人かからかけてもらったことがあった。
やってもらいたいことって、、、それって、たくさんあるけど、あなたやれるの?ていうか自己満足なの?
なんて、荒んだ私は心の中で答えていたものだ。
 
 
震災にあっていないし、大事な人やものを失くしたわけではない身でおこがましく、
何様?と言われても反論できないのだが、
勝手ながら、少し、自分の今の身の上に重ねる部分がある。
それは、
「ありがとう」
と言うのが、たまに、ものすごくめんどくさくて、腹立たしい時があること。
震災被害にあった方々や、関係する方々も、そんな瞬間が、あるのではないか、と。
 
ありがたくない、わけでは、決してない。
特に、力を授かってからの自分がこうして、元気に生きていられるのは、
本当に本当に、たくさんの人たちと、たくさんの何かの積み重ねであることは間違いなく、
それを、実感することができること自体、ある意味、まさに「有難いスゴイGIFT」であると身にしみている。
 
でも、言わば、一転して、助けてもらうことばかりになったのだ。
「ありがとう」な毎日。
 
掛け値なくほぼ自力で過ごし、
自分で、誰かの、何かの大小なりとも助けになり、成果になり、形として現れればいいのに、
こう考えている方々が、きっとたくさんおられるのではないかと、想像している。
 
できるかどうかはわからないが、私もそれを目指したい。
そして願わくば、一日も早く、皆さん方が、自力で生活している充実感を持てるようになってほしいものだ。
 
忘れずに過ごし、できることを少しずつ。