みんなのチカラに~ぼくが力になれること

産まれてすぐに救急搬送されたチカラは、 5万人に1人とされるトリーチャーコリンズ症候群と診断された。 箇条書きでも1枚に収まらないほどの手術や入院を繰り返した2005年からの10年。 これからどんなことが待ち受けているのか。 もう、チカラも家族もどんとこいの力が備わりつつある。はず。

The man(woman) who knew too much~知りすぎていた男(または女)

ヒチコックの映画、「The Man Who Knew Too Much」は、
彼の映画の代表作。そして、映画挿入のドリスデイが歌う「ケ・セラ・セラ」は、もっと有名だ。
(つい最近は、綾瀬はるかが悔し泣きしちゃってるCMバックで流れてましたね。)
 
 
ここ数日の、大津市のいじめ関連のニュースには心痛める人も多いだろう。
亡くなった生徒さん、ご家族、口惜しいという言葉では表せないであろう、その後の諸々。
 
いじめを、直接的にでも、間接的にでも、経験したことが無い人は、きっと1%もいないと思う。
そして、経験したことがある人の大部分が、「周りで見ている(た)人」なのではないだろうか。
 
何かが「終わり」にならなければ、何も動き出さず、動き出せもしない。
「終わり」が「死」だと、取り返しがつかないというのに。
 
知っていて自分でできることをやろうとして、アホか余計なことすんな、と言われて心閉ざす人もいるだろう。
知っていても、何もできず、何もできなかったことを、一生のトラウマとして抱えていく人もたくさんいるだろう。
 
絆だなんだとか、つながり大事だとか、声高に言ってる人こそ、見て見ぬふり至上だ。
 
いじめも、虐待も、DVも、パワハラや、アカハラみたいなのも含め、
家や学校のような、誰かの居場所であるべき、
他人がちゃちゃ入れることはすなわち「余計なお節介」な空間の中で起こっている、何か、で、
人知れず、(いや、実は人も知っている)取り返しがつかない「終わり」を迎える人たちは、
多分、かなりの率で、救えてない。
 
この場合、何か、を、知りすぎていた男や女は、加害者なのか、被害者なのか?
 
 
ドリスデイの「ケ・セラ・セラ」のタイトルの意味は、スペイン語で「なるようになるさ」。
この歌は、映画の中で重要な意味を持つ。
 
Whatever Will Be, Will Be(なるようになるだろう)
 
まさに、その通り。
でもはたして、これでいいのだろうか。それしかないのか。