力はめでたく、今春、無事に療育通園施設を卒園し、特別支援学校に入学できた。
本当に頭が下がるほど力に愛情を注いでくださり、
私たち家族にご協力いただいた皆さんのおかげである。本当にありがとうございました!
こんな区切りの時期、うれしいことがたくさんだったが、
久々にやだなあ、と思ったこともちょこっとあった。
年配だから、とか、若いから、というのは、
「こいつ仕方ねえなあ」というあきらめや言い訳のためにある言葉の一つだと思う。
が、
本当は、そんな「仕方ない」の半分以上は、
年寄りであることや若いこと、は関係ない、と、個人的に思っている。人格や性質の問題だ。
そう思いながらも、そう言っとけばおさまりつくなら、と使うことが多い。あえて言ってるかもしれない。
でも、障害、に関して言えば、年配の人たちの方がより、違和感やもっといえば嫌悪感が多々あると感じる。
「あっちの」とか、「そんな」とか、「かわいそうな」とか、端々に超差別用語が満載で、
気持ちが弱っている時は特に、言われると辛い。
重度障害があるものは、小学校に入学すること自体を、あり得ないこと、と認識されている。
小中学校に通学することは国民全てのの義務であり権利である。
「そんな人たちが行く学校があるんだ。」
と面と向かって言う人には、ひとまず一般的な説明はしたが、話半分にしか聞いてくれてなかった。
あーあ、いやだなあ、と思った。
障害が特に重度であれば、家族ともども、地域になじんでいくのが、物理的に難しいところだ。
うちはおねえたちが2人いて、少しは助かっているところはあるのだが、
今年度初めに、ある会に力の入会を打診された際、
力がいろんな会のイベントにほとんど参加できそうにないこと、
そして保護者の私も協力が難しいこと、を話すと、
「重度、っていうことは、誰とも意思疎通ができない寝たきり状態なんですか?」
と尋ねられた。
意思疎通できるか、というと、私と力では、できる、と思っているが、
他の方々にとってみれば、力が発信力も受信力もがない、と見られても仕方ないかもしれない。
寝たきり、についても、そういうわけではないが、一人で活動できるわけではないのだ。
障害のことをよく知っているわけではない一般の方々からすれば、
大きなくくりでいえば、「重度」イコール「寝たきりで意思疎通不可」と、分類されるのか。
そんなことを考えていると、いろんな説明自体がめちゃくちゃめんどくさい、と思ってしまった。
結局は、ほぼ強制入会なのだが、力に関して免除された。
免除されたあとで、これでホントによかったんだろうか、と、自問自答してしまった。
力を授からねば、私も、これらの人たちと同じような言葉を発していたかもしれない。
知らないことで人を傷つける。
住む世界の次元の問題であるような気がするが、それでも、
無知であることは免罪符ではない。年齢もいいわけにならない。
これからもいろいろを知っていかねばと思うし、多くの人もそうであってほしいと願う。