みんなのチカラに~ぼくが力になれること

産まれてすぐに救急搬送されたチカラは、 5万人に1人とされるトリーチャーコリンズ症候群と診断された。 箇条書きでも1枚に収まらないほどの手術や入院を繰り返した2005年からの10年。 これからどんなことが待ち受けているのか。 もう、チカラも家族もどんとこいの力が備わりつつある。はず。

無知は免罪符にはならない

力はめでたく、今春、無事に療育通園施設を卒園し、特別支援学校に入学できた。
本当に頭が下がるほど力に愛情を注いでくださり、
私たち家族にご協力いただいた皆さんのおかげである。本当にありがとうございました!
 
 
こんな区切りの時期、うれしいことがたくさんだったが、
久々にやだなあ、と思ったこともちょこっとあった。
 
年配だから、とか、若いから、というのは、
「こいつ仕方ねえなあ」というあきらめや言い訳のためにある言葉の一つだと思う。
が、
本当は、そんな「仕方ない」の半分以上は、
年寄りであることや若いこと、は関係ない、と、個人的に思っている。人格や性質の問題だ。
そう思いながらも、そう言っとけばおさまりつくなら、と使うことが多い。あえて言ってるかもしれない。
 
でも、障害、に関して言えば、年配の人たちの方がより、違和感やもっといえば嫌悪感が多々あると感じる。
「あっちの」とか、「そんな」とか、「かわいそうな」とか、端々に超差別用語が満載で、
気持ちが弱っている時は特に、言われると辛い。
 
重度障害があるものは、小学校に入学すること自体を、あり得ないこと、と認識されている。
小中学校に通学することは国民全てのの義務であり権利である。
「そんな人たちが行く学校があるんだ。」
と面と向かって言う人には、ひとまず一般的な説明はしたが、話半分にしか聞いてくれてなかった。
あーあ、いやだなあ、と思った。
 
障害が特に重度であれば、家族ともども、地域になじんでいくのが、物理的に難しいところだ。
うちはおねえたちが2人いて、少しは助かっているところはあるのだが、
今年度初めに、ある会に力の入会を打診された際、
力がいろんな会のイベントにほとんど参加できそうにないこと、
そして保護者の私も協力が難しいこと、を話すと、
「重度、っていうことは、誰とも意思疎通ができない寝たきり状態なんですか?」
と尋ねられた。
 
意思疎通できるか、というと、私と力では、できる、と思っているが、
他の方々にとってみれば、力が発信力も受信力もがない、と見られても仕方ないかもしれない。
寝たきり、についても、そういうわけではないが、一人で活動できるわけではないのだ。
障害のことをよく知っているわけではない一般の方々からすれば、
大きなくくりでいえば、「重度」イコール「寝たきりで意思疎通不可」と、分類されるのか。
そんなことを考えていると、いろんな説明自体がめちゃくちゃめんどくさい、と思ってしまった。
 
結局は、ほぼ強制入会なのだが、力に関して免除された。
免除されたあとで、これでホントによかったんだろうか、と、自問自答してしまった。
 
力を授からねば、私も、これらの人たちと同じような言葉を発していたかもしれない。
知らないことで人を傷つける。
住む世界の次元の問題であるような気がするが、それでも、
無知であることは免罪符ではない。年齢もいいわけにならない。
 
これからもいろいろを知っていかねばと思うし、多くの人もそうであってほしいと願う。