みんなのチカラに~ぼくが力になれること

産まれてすぐに救急搬送されたチカラは、 5万人に1人とされるトリーチャーコリンズ症候群と診断された。 箇条書きでも1枚に収まらないほどの手術や入院を繰り返した2005年からの10年。 これからどんなことが待ち受けているのか。 もう、チカラも家族もどんとこいの力が備わりつつある。はず。

入院生活備忘録

今年2,3月の、約2年ぶりの力の耳鼻科の手術と入院は、予定では手術2時間半、入院10日間程度。
しかし蓋を開ければ、2週間どころか入院は2カ月弱に。
全快しないまま逃がれるように退院した後の数日間は、力の状態は非常に良くなく、
きっと退院を受け容れた私の判断力を疑問視されてるだろうなあ、と感じていた。
それでも、あれ以上1日たりとも居たくなかった。
延々と繰り返すループな大学病院入院の日々に、自分がギリギリだったからだ。
 
入院翌日からのことは、既に日記に更新している通りではあるが、
実は結構な努力をして、セーフモード内容にしていたので、(それでも読み返せばかなり感情的)
書かなかったいろいろも含め備忘録として。
 

入院当日は手術前日で、2月というのに異常な暑さ。
案内された真新しい病室の室内設備は、ホテル並み、と言ってもいいくらいだが、
入室後さらに暑くなり、母も力も2月上旬にして半そでで汗だくだった。
後から考えればその時点で既に、この病室が私たちにとって決して「快」ではなかったのだ。

入院前から、当人の力は、微妙な下痢症状だし、
母もまた10年以上ご無沙汰していた顔の吹き出物がでるなど、決して全開バリバリではなかった。
これらもまた、シビアな入院生活の前兆だったのかもと思う。
 
 
約2週間の予定が延々と真冬から春まで続いたのは、力の状態と術後経過が、
多くの症例を知る執刀医にとっても一般的でなかったことは、一つあるだろう。
でも、本人はもちろん、私たちにとっても厳しい「予想外」は、今までも何度もあったし、
力独自の身体の個性が為すものとして受け容れ、立ち向かうしかない、と思える部分でもある。
 
だから、これだけダメージを与えられたのは、
本当にどうしようもなくて、悔しく悲しいが、
やっぱり、病院の体制とそれに埋もれるスタッフの資質が大きな要因だと思う。
力の身体は、いかんともしがたいが、変わり、改善することはできるはずのことから、
こんなに負荷をかけられるなんて、なんて理不尽なこと。
 
そして、今回もうひとつ大きかったのは、「個室」だ。
快適そうな見栄えとは裏腹な、
色彩や、何か心に触れるようなとっかかりも個性もほとんどないのっぺり空間。
しかも、病棟の端っこ。

ほとんどの時間を、静かすぎる落ち着かない部屋で、心身ともに不安定な力と母とで過ごし、
さらに病院側の問題ある対応や人為ミスに追い打ちをかけられる。

今までどんなシビアな状況で、どんな寝床であっても、疲労も手伝い、ほとんど3秒就寝を常とする私。
今回の入院時、初めて何となく眠れない時間を過ごし、眠れば恐ろしい夢を見てしまうことが数日あった。
自分はひょっとして精神に異常をきたしているのでは?
と思わせられることが何度もあり、本当に怖かった。
 

入院後半、退院の話がちらほらできたところで、
とどめのような、投薬ミスの事件があった。
幸いなことに、力にとって大きな影響がない範疇だったが、
そんならよかった、で済む話ではない。
このことは、今回の入院生活を顕著に表わすエピソードだ。

それまでも既に、何もかもに全く響いてない感じの病室担当医は、
自分の落ち度がもたらした「誤投薬」という状況に、あまり危機感をじていないように見受けられた。
医師としての意識やプライドはないのか。驚愕ものだ。

入院から日が浅いある日、ある雑談をした際、
「医師なら絶対に職にあぶれることがないですから」、
とのたまっていた輩である。
耳を疑ったが、彼女にとっては医師もただの職業の一つなのだ。
 
さすがに、後でやってきた執刀医は低頭で謝っていたし、
教授回診時しか病室に来たことがなかった看護師長は、
力の投薬資料片手にやってきて、話を聞いてくれ、
さらに、私が床に寝ていたことに気付き、
古いのでよければ病院のマットレスを使ってくれ、と、いそいそと貸してくれた。
こんなやりとりも全て、大いにめんどくさく、心身ともに消耗させられたことに変わりがない。
 
面倒はそれで終わりではなかった。
翌朝、投薬ミスに激高した夫(既に勤務地に戻っていた)、電話にて病院に、おそらく、「怒鳴り」こんだ。
午前中、誤投薬の話を電話でしたのだが、私との話が終わってすぐに受話器を取ったと思われる。
ほどなく執刀医が病室にやってきた。
見てすぐわかる逆切れ状態にて。
夫がどんな物言いをしたのか想像に難くなかった。
しかし、ミスはミスである。明らかに病院の落ち度だ。
医師側が逆切れしていいはずはない。
しかも、夫でなく私に、八つ当たり状態とは。
 
しかし。。。
入院治療中だ。
力は二度目の微熱を発し調子を落として退院が延びたばかり。
医師におさまってもらうしかない。
患者というのはなんと弱い立場だろう。
私は夫の非礼を詫び、とりあえずその場は平定。
ちょうど弁当持って来てくれていたばあちゃんは、
娘と執刀医のやり取りの横で、痛ましい思いをしながら、はらはらとなすすべなく。
 
夫にはその後、私から再度電話で問い詰め。
感情に任せての行動は、決してプラスには働かない。いつになったら学習できるのか、と。
共同戦線張らなけりゃいかん人間が、私の後ろから銃を打っている状態になってることを、わかってない。
もちろん、力を思っての行動であることは疑う余地はないのだが。本当に困る。
 
夫は頭冷やして反省し、謝罪の電話を医師に入れたらしい。
まあ、早いうちに反省するのはいいことかもしれんが、すぐに反省できるなら、事前にうまくコントロールしろよ。
 
その日、午後の嚥下検査を経て、夜遅くに執刀医と病室担当医がやってきて説明をしてくれたが、
きっと、バツも悪かったのだろう。
執刀医は大変丁寧に説明してくれて、理解と納得はできるものだった。
医師としては大変優秀なのは誰もが認めるところなのだ。
 
その後、いつ退院してもいい状況だったにもかかわらず、
繰り返す原因不明な微熱や下痢でいつ退院できるかわからないようになってしまった。
病室担当医は、
うちの専門領域は終わってしまったのでかかりつけ病院に受診されては?
下痢などの全体状態の管理は専門外ですし、などと言い始めた。

確かにその通りで、その方が、きっと力にとってはいいことなのだが、
今までの彼女の所業から、私はすっかり素直に聞けなくなっていた。
面倒だからさっさと片づけちゃおう、てことか??と。信頼関係がたがただ。
 
そんなこんなで、力が熱が下がった時点ですぐに、逃げるように退院してきたというわけだ。
力もその後ギリギリで再入院は回避したが、
母ちゃんのせいじゃないよ、と頑張ってくれたのではないかと、力に対しては、心苦しいところである。
 

こんなストレスフルな生活の積み重ねは、帰宅して数日後、私も心身ともに絶不調の大波をかぶった。
入院生活を思い出したくないので、
入院時に力と私が来ていた衣類や、使っていた生活用品を目に見えないところにしまった。
微熱や腹痛、ぜんそく気味など、軽い異常状態が続いた。
もうここまで落ち込むと、何をしても持ち上がらない。
引きこもり状態に陥ったので珍しく、自宅でも読書を開始した。
伴は、乱歩短編シリーズ。
きっかけは、ちょうどそのころ、女優の寺島しのぶ銀熊賞を受賞したこと。
映画「キャタピラー」→「芋虫」→「江戸川乱歩」というつながり。
 
「芋虫」は、戦後全編墨塗りになったほど。
当時の出版物としては確かにオールアウトであろう作品だ。
明智小五郎ものの一方でエログロ作家だと言われていた乱歩。
それでも日本の推理小説作家のアイコン的存在の乱歩の作品は、
今まで人間椅子くらいしか読んだことなかったが、確かに読み進めれば、なるほど、な作品ばかり。
あやしい魅力満載で、短くても引き込まれるものばかり。
 
心身ともに具合が悪く、どんよりと乱歩短編集を読んでいる状況は、
はたからみれば、ちょっとやばくないか?と思われてもおかしくなさそうだったが、
やっぱり、自宅で読書に没頭できるほど、私の日常は甘くなかった。
力の看護ケアや、娘たちの雑雑な日常にのおかげで、
いつのまにやら入院トラウマ状態は薄れていった。
これも、ひとりでなく、家族がいるおかげ。本当にありがたいことだ。

乱歩は短編集を古本で全巻揃えたにもかかわらず、数篇読んでほこりをかぶることとなった。
もう今では、手に取ろうという気にならない。
ずーっとほこりをかぶってくれてれば、いいけど。

かくして、大変な入院生活を経て、力は徐々に回復し、
手術した甲斐があったのだろうと思えるような状態になっている。
産みの苦しさだったのだろうか?あの二か月は?

おわりよければ、全てよし、ということにしておこう。このことも。