みんなのチカラに~ぼくが力になれること

産まれてすぐに救急搬送されたチカラは、 5万人に1人とされるトリーチャーコリンズ症候群と診断された。 箇条書きでも1枚に収まらないほどの手術や入院を繰り返した2005年からの10年。 これからどんなことが待ち受けているのか。 もう、チカラも家族もどんとこいの力が備わりつつある。はず。

光市母子殺害事件判決

とうとう判決が出た。
先週位から当事件の判決をどきどきしながら待っていたが、
昼からはずっとこの報道だ。

うちでは、夜のNHKのニュースのヘッドラインだけを見て、
その後、そのことについて、娘たちと話すことが多い。
彼女らはまだ小学低学年。ほんの子どもだが、
その視点には余計な情報がないからか、
はっと驚く指摘をしたり、まったくそのとおり、と思わせられる一言が結構ある。
この娘たちとの会話は、大人の身としても、気づきの時間でもある。

今夜はどこのニュースでもトップの光市母子殺害の判決について。シビアである。
事件の概要などは、私が話さねばならない。
できるだけ簡潔に、子どもにも解るように、
でも、最も大事なのは、「ニュートラルに」伝えること。
どちらにも寄らずに。これは子ども相手ならではの難儀さ。

下のお姉ちゃんRはだいたい、
どうやって死んでしまったのか、殺されてしまったのか、など、
ちょっと避けたい話からいきなり質問してくる。
でも、それが事件の核心だといえば、そうだ。

R:「じゃあさあ、うちで言ったら、ちーくんも、Rも、Nも、おかーさんも、
誰かに殺されてしまって、そこにお父さんがお仕事から帰ってきたってこと?」

そう言ってきっと自分に置き換えて想像したのだろう。
がーん、と、ショックを受けた顔をして、一時無言になった。

上のお姉ちゃんNは、Rのようにリアルなところは大変嫌いなので、
そこは触れずに、もっと、大人目線で尋ねてきた。

N:「殺した人って、どうなると?もう捕まったと?」
母:「うん、もう捕まって、裁判、ていうので、みんなでずーっとどうしよっかね、てお話合いをしよったと。それで、今日、犯人の人は、死刑、ていうのに決まったとよ。」
N:「死刑、って何?」
母:「死んでおわびをする、ってことかなあ、うーん、難しいねえ、命で償う、ってこと。」
N:「つぐなう?」
母:「そうよねえ、Nには難しいよねえ。殺してしまった天国のお母さんと赤ちゃんに謝りに行く、
ってことになるかなあ。」
N:「ええー?じゃあ、この人『も』殺されると?誰から殺されると?」
母:「いやいや、殺される、ってことじゃなくて、死刑、ってこと。あー、でも殺される、って風に見えるよね。いや、殺すってわけじゃないっちゃけどなあ。説明難しいねえ。」
N:「誰が決めたと?死刑って?」
母:「裁判、ていうところで、みんなでお話合いして今日きまったとよ。」

Nは「死刑」が、ちゃんとは理解できてはいなかったようだが、
犯人が死刑になったら死ななければならない、しかも、誰かに決められて、というところに、
ものすごくショックを受けていた。

彼女ら、また、心を突いてきたなあ。
重い課題だからこそ、子どもの感性は、本当に侮れない。

少年法のことや、裁判員制度の今後を左右するだろう、
なんて、解説されているが、
彼女らが指摘する点、まさに、もっと根本的な、

何で殺してしまったのか?
人を裁き、死刑を科すことについては、どうなのか?

そんなことを、多くの人が考えるべき契機にならねばならない事件なのだろうと、
改めて思った。

いろんな解説や意見が錯綜する当事件。本当に軽々しく扱えない。
事件というのは、被害者にとっても加害者にとっても、
判決までの長い道のり以上に、それ以降がもっともっと長いのかもしれない。
ずっと戦い続けていくしかないのだろうか。
被害者がメディアに向かって話している姿を見て、胸をふさがれる思いがした。