みんなのチカラに~ぼくが力になれること

産まれてすぐに救急搬送されたチカラは、 5万人に1人とされるトリーチャーコリンズ症候群と診断された。 箇条書きでも1枚に収まらないほどの手術や入院を繰り返した2005年からの10年。 これからどんなことが待ち受けているのか。 もう、チカラも家族もどんとこいの力が備わりつつある。はず。

22.チャレンジさせる人たち

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「みんなのチカラに」連載第22回目が掲載されました。
http://www.nishinippon.co.jp/medical/2007/03/post_284.php

今からちょうど一年前の入院中に、
病院窓口付近に置いてあった、
障害児の会「クックルー・ステップ」の会報に、
『チャレンジド』という言葉が、
コラムで紹介されており、
私は初めて知りました。

竹中ナミさんという方が最初にアメリカで聞いて、日本に紹介し、
それが、少しずつ広まっているとのこと。

なるほどねー、と、
その頃の力を見ながら、その言葉に一人でうなずいていたことを思い出します。

コラムをお書きになった「クックルー・ステップ」の方と、
メールで何度かやり取りをしましたが、
当方の連載を最初からご覧になっているとのこと。
まだまだひよっ子の私たちなので、
きっと、
ああ、こんなこともあったわね、
とか、
こんなことも思ってたわねえ、
とか、
思い返していただいているのでは、と推測しました。

ちなみに、このクックルーステップの会報はとても充実していて、
感心しました。
HPでも読めます。アドレスは以下。
http://kukkurustep.moo.jp/menu.html


みんなのチカラに<22>チャレンジさせる人たち

 ある障害児の親の会の会報を病院で見かけた。たくさんのヤマを乗り越えた子どもと、親たちの体験談やさまざまな情報が掲載されていた。

 その中に「海外では障害のある人のことを課題を与えられ、使命を持つ、またはそのチャンスをもらった者=チャレンジドと呼んでいる。チャレンジドを表す適切な日本語はないから、『チャレンジド』という呼び名が日本で広まれば」という内容のコラムがあった。

 なるほど。チャレンジドという言葉はしっくりきた。英語ならではのシンプルで分かりやすく、「障害」のようにマイナスイメージのない言葉。呼称としては理想的だと思った。と同時に、今の日本ではなかなか浸透しないだろうな、とも感じた。意識の問題が大きい気がするからだ。

 バリアフリーだ、ユニバーサルだ、と言われるようになって久しい。これらの言葉を使う人の中に、真の意味を理解している人がどれだけいるのだろう?

 空いているからと健常者が身障者用駐車場に車を止めたり、スロープや点字歩道に堂々と駐輪している光景は珍しくない。電車やバスの優先席や白いつえの意味も、すっかり薄れて感じるのは気のせいだろうか?

 大人が子どもに教えねばならない「守るべきこと」を、大人自身が「何の気なし」にしゃあしゃあと破っている。悪意のある行動よりもよっぽどよくない気がする。

 という自分も力(ちから)が生まれて意識が変わった。今まで、目や足が不自由な人が困っているとき、手助けすることを躊躇(ちゆうちよ)していた。どうすればいいんだろうと、まずは頭で考えてしまっていた。

 でも、今なら考える前に一歩が出る。道端で転んで泣いている子どもに「どうしたの?」と声をかけるのと変わらない感覚でいいんだ。今までは「普通に」「当たり前に」接することさえできてなかったことを思い知った。仕事柄、福祉分野も少しは勉強し、理解している気になっていた自分が恥ずかしい。

 お姉ちゃんが通っている保育園の子どもたちが最初に力を見た時に言った。「のどのこれ(カニューレ=気管切開孔(こう)に挿入している短い管)何? 変なのー」。直球だ。「これはね、息をするためのもので、外れると死んでしまうとよ」。こう説明すると、神妙な顔をして聞いていた彼ら、「わかった、じゃあ、気をつけておくね!」と、それからいつも外れてないかをチェックしてくれるようになった。

 こんな子どもとのやりとりは究極の理想型だと思った。力を見て、あら? とか、何で? という表情を一瞬で何も気付かないフリに変える大人と比べてしまう。大人ならではの配慮は逆に相手を不快にさせることがあることも当事者になってみて分かった。

 チャレンジドと呼ばれる人たち。みんなに何かを乗り越えるべく「チャレンジさせる」人たちなのかもしれない。