今週半ば、登園してすぐに、さわちゃんの訃報を知らされた。
さわちゃんは、昨年度から力と同年齢児組。遠方からお母さんと一生懸命通ってきていた女の子。
先月頭に大きな手術をしたが、術後経過が芳しくなく、ICUで頑張っていた。
いろんなことを抱えながらも、同組では元気度一、二を争うほどのさわちゃんだっただけに、
術後のことを聞いてはいたが、まさかこんなことになろうとは夢にも思わなかった。
誕生日を3日後に控えた早朝、静かに息を引き取ったそうだ。
日本の民間伝承に「福子伝説」というものがある。
曰く、障害がある子が生まれた家は繁栄する、というもの。
障害がある子がいることで、
周囲の家族などがさまざまな場面で努力し協力することが必要不可欠になることから、
おのずと家が栄えることが多かったため、
子が福を呼ぶ、と、「福子」と言われて大事にされた、というもの。
民間伝承なので、この伝説の性格には様々側面はあろうが、
少なくとも私たち家族も、栄えるかどうかは別として、こんな伝承を実感する毎日だ。
力を授かったことで、以前よりもずっと、
命や健康を、日々の何ともない日常を、大事に感謝しつつ、過ごしていると思う。
でも、生命の河というのがあるのならば、
そのほとりにいつも立っていることを実感させられる毎日でもある。
さわちゃんの訃報を聞いた直後から、無性に腹が立って仕方無かった。
今日、告別式に参列してきたが、絶対に泣くもんかと思って出かけた。
私ごときが泣いても泣かなくても何にも変わりはしないが、やっぱり腹が立ってしょうがないのだ。
何に?
何かわからん何か。
お子さんの葬儀に出るのは初めてだ。
斎場に行くと、入口にはたくさんの写真と思い出の品々、
祭壇にはさわちゃんの笑顔の写真があり、小さな棺があった。
棺の中のさわちゃんの顔は、別人のようにすっきりと大人びて見えた。
いつも笑ったり泣いたりのちょっと天然でお茶目なお母さんは、
術前も、術後も、泣いて泣いて不安定でいたのに、今日は別人のように、落ち着いて柔和であった。
こんなお母さんをいつもフォローし支えていた穏やかなお父さんもまた、
別人のように憔悴しきって小さく見えた。
帰宅して、夜、別件で電話してきた夫に、告別式のことを話した。
電話口で、涙していたようだ。
周りで聞いていた娘たちも、涙をこらえていた。
そう、これが普通の感覚だ。
そういえば、ずっとこの3日間、私は戦闘モードに入っている。
力を授かってからのハードでシビアな毎日の積み重ねから、
悲しみや怖さがくると、強力ロックがかかる仕組みが作られたのだろう。
真空に入っている感じは、逃避のようなものだとも思うし、
ある意味、精神的には異常とも言えるのかもしれない。
戦地にてずっと戦闘し続けている状態。
でもこれで、バランスを保っているのだろうとも自覚している。
河のほとりにいる者として。
さわちゃん、天国で安らかに。