「金曜日には花を買って」
今から20年前のドラマだ。大流行した「金妻」の後継ドラマ。
ここではドラマの話は全く関係なし。
本日10/26付の毎日新聞に載っていた記事に、
なーるほどねえ、と膝を打ったものがあったのでその紹介も兼ねて。
毎日新聞の2面に掲載される「発信箱」というコラム欄、
結構好きなので、よく読む。
今日のこの欄のタイトルは、
「花はどこへ行った?」
だった。
こんな内容。
レジャー白書によると
大流行りしたガーデニング今ではすっかり冬の時代で、
余暇に庭や土いじりする人は、
ピークの2001年から比べると2006年は3,260万人になり、
800万人も少なくなっているという。
児童虐待やストーカーという言葉がでてきた頃から人気が陰り、
911テロの年を境に落ち込んだことをみると、
もしかして、何かの暗示かも、
担当記者さんは、そう結んでいた。
不肖私も、一応いけばな(池坊流)の看板を持つ。
人に教えたこともない、ゆうれい部員だが、
「お花をいけること」
は、自分の中ではスペシャリティだ。
子どもがまだいない時分は、
お客様がいらっしゃる時、正月等の行事には、
100%いけていた。
玄関先については、
何もなくとも季節ごと(ちょっとだけ季節を先取りすることがポイント)に、
ちゃんと、つくっていた。
でも、母ちゃんになった頃から、
仕事、育児家事、雑ごとを言い訳に、
いけばな100%到達は稀になった。
欠かさないのは正月のみ、という有様だ。
昔の日本家屋は西洋と異なり、
畳とふすま、漆喰の壁という、地味色の内装と、
家具もほとんどない空間。
でも、その地味空間の中、中心の床の間に花をいけると、まるで違うものになる。
最後の仕上げ、が花だ。「いける」は、「生かす」ということにつながる。
そんな空間の仕上げ、という意味以外でも、
花は重要だと、実際思う。
花がいけた瞬間、空間は、wetにかわる。絶対湿度が上がる。
でもこれは、湿度だけのことじゃないと、私は思う。
私だけがそう感じるのかもしれないが。
また、うちでは、花がない時期、は必ず、
自分の精神状態も体調も充実しているとは言えない。
花の有無は、この家のバロメータと言える。
つまり、花は、潤いであり、余裕なんだ。
花や草木はすぐ枯れるし、高い。
手入れもはっきりいって面倒。
生活に絶対に必要なものでは、ない。
でも、あえて、誰かのため、何かのための、
一見無駄だと思われがちな「もの」や「こと」が、
やっぱり、このごろ少なくなってきている感じは否めない。
最後の仕上げの「何か」が足りないんだ。
ガーデニングと最近の世相の相関があるかないかは、
もちろん断言はできないが、
私は、この記事を読んで、そうだ、そうに違いない!と思った。
金曜日には花を買って。
スーパーのタイムセールものでもいい。
一束、一輪でもいい。
きっと、心の余裕が、生まれます。